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秋葉原の無差別殺人について 


明日、世界が終わるとしたら、あなたは何をしますか?という問いの答えは、
愛している人と一緒に過ごす、家族と過ごす、おいしいものをたらふく食べる、普段通りの生活をする、ただ寝てる、女とやりまくる、人を殺す、など様々。

そう、彼にとっての世界は終わっていた。
彼が選択したものは、秋葉原という劇場での大量殺人だった。
しかし、世界は終わらなかった。
そんな彼が警察に捕まって、犯した殺人の理由として口に出した言葉は「世界が終わったから」ではなく「生活が苦しかったから」だった。
のちに自分がブサイクだから、だとか、彼女がいなかったから、だとか、親のせいだとか、ケータイブログに吐露された「動機のようなもの」が垣間見えることになるのだけれど。



先日、起きた秋葉原での殺人を、自分なりに整理してみようと、書いて、みる。
ただ、この事件について、ワイドショーの報道の仕方がどうこう、社会の仕組みがどうこう、というものについては保留することにする。
この類の事件の報道のされ方には鋳型があって、いつもそれ通りに報道されていくだけだと辟易しているし、このことについては酒鬼薔薇以降、多くの言及が成されているから。(報道の鋳型については後に触れる)
加えて、事件を理屈や精神分析などでは説明できないし、説明すべきでないことまで必要以上に(こじつけ的に)説明することには、意味がないと感じるし、そこから導き出される答えにもやはり意味がないと感じるので。社会の仕組み云々になったら尚更。
とても勝手な言い分だけど、僕自身関心があるのは社会の仕組みからみた猟奇的殺人ではなく、彼(事件)への共感と反感だ。



彼が世界を終わらせることができた理由。
報道で流れる、彼のブログから見てもわかるように、彼はかなりの被害妄想癖だ(そして太宰治型ナルシシスト)。
彼をそのようにさせた理由は、彼の外見コンプレックスからかもしれないし、いじめからかもしれないし、本当に親のせいかもしれない。しかし、その理由についても保留する。
問題は、彼がそれを加速させたこと。
加速させてしまった理由は、おそらく「最悪」を他者へ責任転嫁し「シンプル化」したことにあるんじゃないかと思う。

彼はつねに「最悪」の場面を想定して生きていた。
もしくは「最悪」をさらけ出すことによって自身を守っていた。
この事で思い出すのが、
「私は、何にも期待してません。いつも最悪な状況をシュミレーションしているんです。だって、そうすると最悪な場面に遭遇しても動揺しないし、それに最悪を想定しておけば、いくら期待通りにいかなくったって最悪よりはましだな。ってポジティブに考えられるじゃないですか」
という深田恭子の言葉だけど、これは置いておいて。

彼は、自分の状況の常に「最悪」の位置を探し出し、そこに立つことによって自分を守っている。
守っているだけでなくて、ここには潔癖症のようなものが垣間見える。
今、自分のやっていることは本当に大丈夫なことなんだろうか?
自分は他人から認められているんだろうか?
自分の選択は正しいんだろうか?
誰か教えてよ。
そして僕を見て。
ねぇ、助けてよ。
というようなエヴァンゲリオン症候群とでもいうような、潔癖な存在の不安が根底にあるように思う。
自分はだめだ、でも他人に認められたい。でも他人は僕を虐げる。だったら他人なんて、世界なんてなくなってしまえばいいのに。と。
不安から逃れるために、他者の排除という方法で彼はこれを処理した。

そして「最悪」は「他者」に向けられ「シンプル化」されていく。
ムカツイタ→コロス、カノジョガデキナイ→ブサイクダカラ、ブサイク→オヤノセイ、センスガナイ→オヤノセイ、タノシクナイ→オマエラノセイという「他者のせい」になっていく。
彼がすべてを他者のせいにして、自分の否を全く認めていないとは思わないけど、図式を単純化することによって、そのような複雑な要因を排し、悪をつくりだし、その悪を倒せばあたかも問題が解決する、という恐るべきシンプルさを持って彼は行動をしていった。(彼女ができていたら、本当に彼の世界は終わらなかったかという疑問については答えるべくもない)
これは言ってしまえば二元論的であり、キリスト教で言うところの悪魔であり、闇であり、仏教(正確には仏教の一部の宗派)でいうところの鬼であり、地獄であり、アメリカでいうところの悪の枢軸であり、イラクだけど、それは置いておいて。

彼は、物事をシンプル化することによって殺人をする動機を手に入れた。
そして、さらなるシンプル化、悪を「記号化」することによってそれを実行した。
戦争で相手を生身の人間として、ましてや相手の家族や友人、人生のことなどを考えたら、大量殺人ができないように、彼は相手を記号化した。
おそらくこの時点で彼は他者云々なんて考えていなくて、背徳的なナルシシズムが彼の多くを占めていたんじゃないかと思う。アニメの残虐でクールなキャラの想像でもしながら。
そして、鬱屈したパトスを放出すべく、あの劇場型無差別殺人を実行した。



この事件を見て、僕が強く感じたことは、世界はそれほど単純じゃない。ということだった。
別にこの事件じゃなくたって、たいての事件にあてはまるけれど、結局行き着くところはここだった。というのも自分がいつ被害者になるか分からない。という反面、自分がいつ加害者になるか分からない。という可能性も考えてみなくてはいけないと感じたからだ。
彼の被害妄想と自己顕示欲が混ざり合った言動は、僕も思春期に体験したことがあるし、今現在それがすべて無くなっているとは言えない。いつどんな時にそれが鎌首を上げてくるか分からない。世界をシンプル化し、それに憎悪を加えたら、大変なことになる。という戒めをしなくてはいけないと思ったのだ。

最初に僕は、彼への共感と反感と書いたけど、
それは、世界は酷いものだ。ということに対して共感し、しかし酷い世界だけではない。と反感したのだった。
二元論的ではなく、価値観はひとつではなく、常に世界は多様性を孕んでいる。その豊穣性、遇有性を見なくてはいけない。酷い世界を素晴らしい世界に変えるのではなく、酷い世界と素晴らしい世界は常に混在している。

混在している。
彼は、きっとこの殺人に対し、自分のやっていることが正しくないと気付いていたはずだ。
気付いていてもやってしまったのだ。
捕まえてくれ、という彼の断末魔は決してナルシシズムから出たものばかりでなく、罪悪感も含まれていたはずだ。
しかし、これは心の叫びではない。
心の叫びとは人間性善説にのっとった考えだ。
彼は同時にこういうことも思っていた。しかし実行した。

世界をシンプル化してはいけない。シンプル化しているのは彼だけじゃない。報道もだ。
彼の多様性を無視し、殺人犯的な殺人犯にし、被害者を被害者的な被害者にし、二項対立の図式で説明する。こうしなくては円滑に報道が進まないという理由があるのだろうが、そんなことは知ったことじゃない。酒鬼薔薇から、いやきっともっと前から続いているこのことに気付かなくちゃいけない。


この日記の最後に。
自分なりになんとか、あの事件を整理してみたけれど、これで事件が分かったなんて思ってはいません。
彼がどのように育ち、どのように物事を考えてきたかなんて知るすべもないし、なぜ被害妄想をもつようになったか、なぜあれほど、他人に固執するようになったかなんて分からない。ましてや、事件の動機などは分かるはずもない。だから、事件はこういう理由で起こったんだ。ってことは言えない。
この文章は、あの事件の後、報道を見ながら、一側面を好き勝手に抜き出し、そこから感じたことを書いたにすぎない。



旅の仲間 -澁澤龍彦と堀内誠一による航空書簡より- 

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澁澤龍彦、堀内誠一の約20年に及ぶ全67通(澁澤龍彦24通、堀口誠一43通)の往復書簡展
渋谷 ギャラリーTOM にて

 ギャラリーTOMは吹き抜けワンフロアに、そこから階段で登るグルニエのみっていう小さなギャラリーだけれども、明るくて雰囲気がよく、好きなギャラリーのひとつ。
 
 ギャラリーに入ると壁一面に澁澤、堀内の往復書簡が展示してある。
 堀内誠一の手紙には色鮮やかなイラストがついていて楽しめる。両氏が写った写真パネルも何点か飾られていた。(その写真がとてもカッコよかった!)
 この日は、両氏の盟友であり、仏文学者の巌谷國士氏のトークイベントがあるということもあってギャラリーはすごくにぎわっていた。

 「旅の仲間」ってタイトルは澁澤と堀内が旅行仲間だった。ってわけではなくて(正確には旅行も一緒にしているが)「旅」=「人生」といった具合に訳される。巌谷國士らしいタイトルの付け方だ。

 
さて、澁澤龍彦の友人といえば、三島由紀夫や土方巽、四谷シモン、金子國義といったディープな人物があげられるけれども、巌谷國士曰く、本当に気が合い、仲が良かったのは堀内誠一ではないだろうか。ということだ。
 澁澤の生まれたのが1928年、堀内が1932年、と両氏はほぼ同年代。
巌谷氏の解説によると、両氏の仲がよかったのは同年代に生まれ、同じような映画、アニメ(武井武雄など)を見て同じ時代を過ごし、共通のノスタルジアを持っていたのではないか。そして、それは個人が持つ懐かしさとは違った、同時代における共通した本質的な懐かしさが二人を引きつけたのだろう。年は4歳はなれていても、おなじ東京で生まれて同時代をすごし、おなじものを見て成長してきたという一種の連帯感が、人生という「旅」の仲間のあいだに、浸透しつつあったかのようである。と。
 
 さらには両氏の仲には親密で共犯的なようなものがあったらしくお互いの手紙の内容を自分の仕事のネタにしたりしていたらしい。しかし、パクリ云々などで騒がない、あっそうなんだ。という軽い目配せですますことのできる信頼関係が成り立っていたそうだ。

 そもそも澁澤と堀内が親しくしはじめたのは、1968年澁澤龍彦責任編集として刊行された雑誌
「血と薔薇」のアートディレクションを堀口に任せた時からだった。
 この雑誌は《エロティシズムと残酷の綜合研究誌》と銘打たれ、60年代の澁澤の仕事を総括するような内容の雑誌で、聖セバスチャンになりきった三島由紀夫のグラビアやら稲垣足穂、埴谷雄高、吉行淳之介…といった相当たるメンバーのエッセイやらオナニー機械やポルノグラフィティの特集やら、、とまあかなりディープでカルトでカオスで艶っぽくて、黒光りしていて、絢爛豪華で、とすごい雑誌だったわけで。
 
 ここで、面白いので刊行の際に掲げられた「血と薔薇宣言」を抜粋。
 (おそらくアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」の影響を受けてるんだろうなあ)


一、本誌『血と薔薇』は、文学にまれ美術にまれ科学にまれ、人間活動としてのエロティシズムの領域に関する一切の事象を偏見なしに正面から取り上げることを目的とした雑誌である。したがって、ここではモラルの見地を一切顧慮せず、アモラルの立場をつらぬくことをもって、この雑誌の基本的な性格とする。


一、およそエロティシズムを抜きにした文化は、蒼ざめた貧血症の似而非文化でしかないことを痛感している私たちは、今日、わが国の文化界一般をおおっている衛生無害な教養主義や、思想的事大主義や、さてはテクノロジーに全面降伏した単純な楽天的な未来信仰に対して、この雑誌をば、ささやかな批判の具たらしめんとするものである。エロティシズムの見地に立てば、個体はつねに不連続であり、そこに連続の幻影を垣間見るにもせよ、一切は無から始めるのであり、未来は混沌とした地獄のヴィジョンでしか生まないであろう。


 いやあ、素敵。
 60年代の澁澤龍彦は、有名なサド裁判から分かるように(上記の宣言を見てもわかるように)異端、オカルト、エロティシズムと世間に疎まれつつも一方に熱烈なフリークを持つ存在だった。
 
 そんな澁澤に堀内は1970年、自身がエディトリアルデザイナーをつとめることになった女性誌ananの創刊号に澁澤のエッセイの連載を依頼する。(ちなみに堀内氏は日本の雑誌におけるデザインを重視したパイオニアで、現在においてもanan、ブルータス、ポパイ、オリーブのロゴは堀内氏のデザインしたものが使用されている。)今では頻繁に組まれる、雑貨、小物特集だが、これはananではじめて取り上げたもので(「かわいい」という言葉が流行るようになったのもこの頃から。)この雑貨の特集から連想された人物が澁澤龍彦だった。
 
 この雑貨=モノの発見、モノの紹介というのは、形は違えど澁澤が60年代から自身のエッセイで取り上げていたものでもあり、70年代に入り日本の社会が安定、生活水準の向上等の影響で、いろいろなモノが商品化され、街には物があふれていることに堀内が目をつけ、澁澤に依頼したらしい。いわば、異端のポップ化商品化といったところ。(例えば、昔は異端、カルトとされていた、骸骨。ガイコツはいまやポップイコンになっている。)
 
 しっかし、トレンドと異端の結びつけをする堀内氏の奇抜さはすごい。この沸騰時代ならではの組み合わせが本当に魅力的。そういえば澁澤はその後、花椿にも連載をした。花椿に澁澤龍彦だなんて、なんて素敵な時代なんだろう。
 
 さて、このように澁澤は、60年代の「澁澤龍彦」を商品化することを承諾するが、一方で、このころから澁澤は60年代の澁澤龍彦から決別するように、違う場所へと向かっていた。
 
 それは彼の著書 「夢の宇宙誌」から「思考の紋章学」へ至る軌跡を見てもわかるように異端、オカルトからモノへの哀愁、自然物への寵愛、さらには幼年期の回想へといたり、自身のミクロコスモスへと向かい変化していく。
 その中でももっとも大きな変化が「旅」だ。
 書斎派と呼ばれていた澁澤は1970年にヨーロッパへ旅立った。
 そしてその後も3度に渡りヨーロッパ旅行をしている。この変化を自身で、「観念の時代から視ることの時代への変化」と語っている。(一回目の旅行からの帰国直後に、盟友 三島由紀夫の自死。以後、澁澤はさらに大きく変化する)

 一方、堀内のほうはそれよりずっと早く、1960年からヨーロッパになじんでいて、1974年には家族とともにパリ近郊のアントニーに住みつき、1981年までの7年間をそこで過ごす。
(澁澤龍彦にあてた43通にもおよぶ手紙は、すべてその間の描かれ書かれたものだった。)
 澁澤の計4回のヨーロッパ旅行のうち3回目のフランス・カタルーニャ旅行(1977年初夏)と、4回目のギリシア・イタリア旅行(1981年夏)には、堀内夫妻と、ときに長女の花子が同行した。
 その間の個人的体験、さらに「仲間」として共有した体験もまた、ふたりの手紙のなかで回想されるようになる。

 そして、晩年。
澁澤は、エッセイの領域から小説へと至り、ヨーロッパ嗜好から日本へ目をむけるようになる。
 お互い、晩年に至っても往復書簡はつづく。
が、しかし、1979年以後は、澁澤龍彦からの手紙だけがのこされている。(以後、巌谷氏の解説を抜粋)
 
堀内誠一は帰国後も世界各地への旅をくりかえし、絵本制作やアートディレクションや著書執筆の仕事を精力的に進めていたが、86年6月、下咽頭癌を宣告される。
 それを知って澁澤龍彦が手紙に書いた言葉――

「放射線の照射をはじめられたそうですが頑張ってください 咽頭は治癒率がいちばん高いそうですから現代医学を信頼してもよいのではないかと思います」(1986年7月17日付)

には、胸をつかれる。
 なぜなら、そのころ近所の病院で誤診されていた澁澤龍彦自身、2か月後の9月に、おなじ下咽頭癌の診断をくだされ、11月には大がかりな除去手術し、声を失うことになるからだ。
 
 最後の便りは1987年6月の、澁澤龍彦からの葉書だった。
大手術後に退院、驚くべき意志の力で連載長篇小説『高丘親王航海記』の最終回を書きあげたのち、だが癌が再発し、再入院してからのものだった。

「いま『高丘親王航海記』加筆中です 秋には本になります 貴兄もどうか御養生専一に いつのまにか夏になりました」(6月23日消印)。


 けれどもその秋は来なかった。
 8月5日午後、病室で読書中に逝去。享年59.
 一方の堀内誠一も、6月までは絵本や新雑誌の企画などの仕事をつづけていたが、病状がにわかに悪化し、7月末に再入院。
 8月17日の午前、54歳の若さで逝去した。
 
 幼少期には共通の絵本や映画や町の風景を見て育ち、やがて戦後の一時期に知りあい、ともに遊びともに仕事をし、ともに旅をし、手紙のやりとりの間にもひそかに友情を深めていったこの「旅の仲間」同士は、最後にはまったくおなじ病におかされ、たった11日ほどの間をおいて、ともに旅立っていった。

 以上が巌谷氏のトークと解説文をもとに60年代後半から死に至るまでの、澁澤龍彦、堀内誠一の関係のまとめレポート。
 本当は、歴史、経緯云々をすっとばし、両氏の手紙を交えつつ、もっと関係を露にしたものが書ければと思っていたけれど(歴史を辿っていったので、かなりの長文になってしまった。)展示されていたものが手紙のみということと、展覧会当日時間があまりなく巌谷氏のトークのあとは展示物をさらっと見ただけで会場をあとにしてしまったので、、
 けれども。
 この両氏の手紙全てをコンプリートした書籍が発売されるということなので、近いうちに買って、また
徒然と何か書こうかな。とも思っています。

 会場には、澁澤夫人、堀内夫人もいて、なんだか遠い過去のこと、と思っていた澁澤龍彦の時代が、今もまだ続いているのだなと。感慨に耽りました。

澁澤 旅の仲間3

shibusawategami



ブログ、はじめました。 

今日からブログをはじめます。
ブログ。。右も左もさっぱり分からん状態ですが、きっとそのうち慣れるでしょう。
ブログをはじめるきっかけってのがありまして。
会うと、政治やら芸術やら世界情勢やら宗教やら、云々という、しち面倒くさい面白い話をする友人が何人かおりまして。
けれど、距離やお互いの都合でなかなか会えなくて。
だったら、ブログでオープンにぶちまけてみない?
と何人かの友人を誘ってブログをはじめてみることにしました。

ルールがひとつだけ。
それは、真剣に書く。ということ。

、、、と書きましたが、肩肘張って書くという意味ではなくて。
むしろ力を抜きつつも、真剣に考えていることをぶちまけていくブログにしようと。
まあこういった具合です。

でもまあ、気楽に読んでいただければ、えぇ
しかし、何人かの友人を誘ってブログをはじめたといいましたが、計画としましては、
とりあえずリンク張って、、、
ってぐらいしか考えていないほぼノープランな状態です!
でも、まあ、きっとね、なんとかなるよ。
慣れよう、ブログにね。
ってな具合でよろしくおねがいします!

この誘いに渋々ながら、いや、とっても好意的に承諾してくれた、僕の数少ない友人さん、ブログ登録したら御一報ください。そう、そしてリンクを張ろうぜ!

では、では
今後、よろしくお願い致します。

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