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スカイ クロラ 


(まず。途中からネタバレしております。お気をつけください。)

先日、スカイ クロラを観てきました。
押井守と宮崎駿は、同じようなことを感じていて、全く違う表現方法をすると言われてるとおり、ポニョとはちがったアプローチで、それを描いていた。

スカイクロラのHPには、若者たちに伝えたいことがある。と書かれた、押井守からのメッセージがある。
ポニョには、ものすごく感動したけれど、どこか置いてけぼりを食らったな、っていう少し切ない想いがあった成長してしまった子供の僕は、57歳のおっさんにして、尚、しっかりと僕ら世代の若者のことを考えてくれる押井守をとてもありがたく想う。(だって、こんなおっさんいないでしょー)

で、
観た感想なのだけれども、
大人にならず、永遠に生き続けるキルドレ、生きているか死んでいるか分からないような地上での生活、必然としての戦争、平和、、、現代を顕にした物語がそこにはあった。
そして、それを肯定するしか、生きるということはありえないという答えも。
けれど、僕は、ラストがどうもしっくりこなかった。
違和感を持ったとか、こりゃねぇだろ、といった具合ではなく、むしろ、分かる。と感じたんだけれどもどうも腑に落ちない。
設定などから、現代を浮き彫りにしているのはよく分るんだけれども、で、それからは?ってところが、どうももやもやとしてしまった。
喉までは、入っている、でも、なんか、腑に落としていいんだか悪いんだか。

押井のインタビューやら、ラストのカンナミの独白で、言いたいことは分かるけど、でも、、
どうなんだ?っていうのが残った。
と、もやもやしてしまったので、原作を読んでみることにした。

原作には、映画と大きく違った部分があった。それは、

__ここからネタバレします。




映画と原作の、大きく違う部分。
それはラスト、
カンナミが草薙を殺してしまうこと、
カンナミがティーチャを撃墜しに行かないこと。

この原作とは違うラスト、草薙を生かしたラスト、ティーチャを撃墜しにいったラストに、
森博嗣のスカイクロラの設定を借りて押井が伝えたかったことがあるんだと思う。
でも、そのラストがしっくりこない。
僕は、日常の肯定というところに、この映画が帰着するのなら、
ラスト、草薙を生かすとしても、ティーチャを撃墜しに行かなくてもいいんじゃないか。と思った。
もしくは、ティーチャ撃墜の意図が、日常の打破(日常を肯定し、それでも日常を打破する)だとしたら、草薙を生かしたことと矛盾するんじゃないかと思った。
この原作と違うラストを持ってきた押井の意図、メッセージはなんだったんだろう??

というわけで、それを探るべく、これから原作の続編、を読んでみようと思います。
もちろん押井は、原作をすべて読んでいるはずだし、読み込んだ上で、登場人物の過去の出来事や歴史なども踏まえて、あのラストだと思うから。
映画は映画の中で完結されなければいけない。っていう大原則があるし、映画と原作はパラレルワールドだと言われればそれまでだけど、スカイクロラには何かどうしても(大切であろう)引っかかるものがあるので、そんなことには構まっていられない。
それに60(歳)近いおっさんが、真剣に若者に伝えたかったことは何なのかちゃんと受け取りたいから。

というわけで、原作本を読み進めて、もう一度映画も見にいってみようと思います。
また、その時に、感じたことがあれば書いてみようと思いまふ。

スカイクロラ見た方、是非、感想を聞かせてください!!
では、では、


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コメント

 何故草薙を生かし、自分はティーチャーを撃墜に向かう必要があるのか。

これについては俺は見てるときは全く持って何の疑問も持たなかったんだよね。まあそれは俺が凄くこの映画に感情移入してて疑問を挟むことを拒否したのかも知れないんだけど。

本来なら草薙が「今度私を殺してくれる?」って言った時点で小説と同じ結末を迎えるべきだったんだろうけど、インタビューでも言ってたけど草薙が函南自身に能動的な行動を要求する決定的なファクターだったってこと。繰り返しの日常を拒否している(死にたがってはいるが)唯一のキルドレだったこと。草薙を殺してしまえば、函南は、キルドレだからパイロットになり、仕事だから戦争をするっていう状態を受け入れる受動的な日々に戻ること。がひとつのポイントだと思う。

小説のラストでは草薙を殺した函南が何か変わったのかということは示唆されておらず(少なくともそう感じた)、じゃあ何なんだよと思う。草薙を殺したことで繰り返しの日常を肯定することになるのか?


ではポイント2、何故函南は撃墜必死の、無敵のティーチャーに向かっていったのか。彼が生きていたら、結局何も変わらないのではないだろうか。「君は生きろ、何かを変えられるまで」とは言ったものの、自分は草薙がかつて愛し、殺した人物の別バージョンであることに変わりは無い。繰り返す日常をただ受け流すことにはならないだろうか。

まあ書いていて俺もよく解らなくなってきたが、とりあえず続く。

ここからはポイント2のパート2。

函南はマジでティーチャーを撃墜するつもりだった。限られた生を持つ大人でありながら空を飛ぶティーチャー。映画版では名前を冠せられ、打ち落とされてはならない英雄、アンタッチャブルなヒーロー。以前草薙と親密な関係(瑞樹の父親??)であったとも勘繰れるような描かれ方をされ、函南は「I'll kill my father!」と意味深な言葉を吐く。「これは僕の戦いだ」とも。

今の世界を、自分達を生み出し、限られた生を生きるにも拘らず、戦争に興じる(?)我々大人の象徴と戦うこと、それが繰り返す日々を、同じ道歩く日々を生きることを肯定することにはならないだろうか。

うん、俺も良くわからんぞ!小説続き読んでみよう。

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