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松井冬子について 


僕は、松井冬子の絵を観ると、なんか落ち着く。
このなんか落ち着く。って感じるのは、
藤原新也の人間が犬に喰われている写真を見ていると落ち着くって感じるのに似ていると思う。
藤原新也は死を想えで、松井冬子は痛みを想えといったところだろうか。


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《浄相の持続》


先日、松井冬子展覧会「松井冬子について」を観に、九段下の成山画廊へ行ってきた。
無機質なビルの一角にあるとても小さな画廊だけど、澁澤龍彦展や恵比寿の写真展でも御目にかかれたシュルレアリスム作品やウィトキンやモリニエなど刺激的で耽美的なものを多く所有し異彩を放つ画廊だ。
画廊主である成山明光氏は、その育ちの良さが言動に観てとれ、そしてミステリアスな雰囲気も持ち合わせるとても素敵なひと。

画廊内は、松井冬子の展覧会に合わせ、トゲのある百合が飾られ、御香が焚かれ、それらが作品を際立たせていた。

今回、展示されていた作品は

《夜盲症》
《完全な幸福をもたらす普遍的万能薬》
《腑分図:右鼓膜》
《試作》
《優しくされているという証拠をなるべく長時間にわたって要求する》
《成灰の裂目》
《浄相の持続(フォトグラヴェール)》
《切断された長期の実験(ジークレープリント)》

モチーフや言論、そして自身のヴィジュアルからキワモノ扱いされているみたいだけど、実際の松井の作品の前に立つと、そんなことより作品の凄みに圧倒させられてしまう。

ある番組で、社会学者の上野千鶴子が松井の作品を「自傷系アート」とカテゴライズしていたが、僕は、これには大反対で、こんなカテゴライズをしてしまうから、「病み」ばかりがクローズアップされてしまうんだ。と憤慨してしまう。
精神未発達の若者のような自己顕示欲からくるトラウマ、自傷、厭世とは一線を画している。
松井自身も、セラピーのために描いているのではないと言っている。
松井の作品はそれらが、ただ即興的に吐露されているだけのではなく、それらを客体化し、持続させている。
絹本に、天然顔料でつくられた岩絵具で、薄塗りで、明治以降に廃れてしまった裏彩色という技法を独学で研究、復活させそれを用いて描いている、この超絶技巧に裏打ちされた「痛み」は、見せびらかすためだけの自己顕示欲からは大きく逸脱して、芸術へと昇華されている。
「痛み」と「病み」はイコールではないのだ。


繰り返される受動による激しい苦痛の持続、また、内部に向けられた崩壊の予兆と破壊衝動、それらが形象化された絵画が見たいのです。
例えば、男性へのコンプレクスから女が自らの肉体を裂き、立派なミュラー氏管を見せびらかしている、そのような絵によって指し示したいのです。



と松井自身が書いているように、松井冬子の描くものは「痛み」だ。
実際、松井の作品のいくつかは、腹を切り裂かれ、内臓が飛び出ているものがある。
でも、それらが痛みの表現かと言われれば、僕は違うと思う。
腹を切り裂かれ、内臓が飛び出していても、僕は、それほどグロテスクには感じず、直接痛覚に働きかけてくるものとは感じなかった。
たぶん、松井の描く「痛み」というのは、直接的なそれではなく、その裏側にあるものではないかと思う。
その裏側にある精神的苦痛が肉体に表出されているのではないかと思う。
静謐としていて、上品で、だけど痛い。
この精神的苦痛を感じ取るのは、おそらく男性より女性の方なんだろうなと思う。
女性だけがもつ生理的な痛み、そして男と違い肉体と精神のシンクロ率が高いその痛みと男性に理解されないその想いとが共振するのだろう。
事実、松井のファンは女性が多い。

男性は直接に攻撃的な作品を作ります。
女性の作品は受動された鬱屈による放出ですね。
たとえば上村松園、草間彌生、ニキ・ド・サンファール、ジェニー・ホルツァー。
ああいった作家も直接的な攻撃性というのではなく受動されて積み重なったものによる攻撃性があると思います。


と松井は語っている。
先に紹介した上野千鶴子はこれを「ジェンダー化された痛み」と言い表していた。
画壇に位置する人物は男性が多いため、松井の絵が評価されても、本当に本質が分かっているのか。という上野の疑問から、
ジェンダー化された痛みの表現は、脱ジェンダー化せずに理解されなければいけない。
そうしなければ、この「痛み」は男性的な観点から見たら違うものになってしまう。この「痛み」に寄り添ってみる必要がある。
と言っていた。
この言葉には、とても共感した。
松井冬子についての文章や対談をいくつか読んでみたけど、その中に違和感を感じるものがあり、その大半が男の論者だったからだ。
彼らの多くは、松井冬子のキワモノ的な部分だけに対して述べていて、ちゃんと松井冬子の作品を論じているとは言い難かった。
ある対談では、松井が、そうではなく普遍的なものへのアプローチがある。と、(対談相手に)ちゃんと説明して話しているのに、一向に耳をかさず、話が噛み合っていかず、自分のロジックで説き伏せ、解釈していくという腹立たしいものまであった。
律儀に説明する松井がなんか健気にも思えてきてしまった。
松井の表現するそれが女性に近い側にあるものだったとしても、もう少し理解できると思うのだけれど。
権威とプライドで男性的にギトギトしたヒトにはそれを理解できないのだろうか。
彼らは権威ある芸術家と呼ばれ、多数に影響を及ぼしていく存在なのだから、その病的に保守的な様に、なんかうんざりもする。(男って厭だね。)
反面、松井はこのことについてちゃんとアプローチしていて、

男性が観てもわかるように描いているつもりなんです。
女性に向けて制作したい、同調してもらいたいけど、男性が観てわからないのは問題外。
美術はほとんど男性が占めている世界ですから。
ですから作品が、雰囲気や色が主体ではなく、ロジックである必要がある。


と、語っていた。


僕は、松井冬子の絵を観ると、なんか落ち着く。
このなんか落ち着く。って感じるのは、藤原新也の人間が犬に喰われている写真を見ていると落ち着くって感じるのに似ていると思う。
モチーフはもちろん、その細部への執着や技巧を見ていると心安らいでくる。
それは、「癒し」とは少し違っている、松井冬子の作品で表現される「痛み」と自分の「痛み」が共振しつつ、中和され溶けていくてるような心地がしてくるのだ。


そういえば、今横浜でやっている「わたしの美術館展」で茂木健一郎が《世界中の子と仲良くなれる》をキュレーションしていた。
茂木さんはどういう意図で松井冬子の作品を選んだのかなあ。気になる。


sekaijyuunokoto

《世界中の子と仲良くなれる》
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