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非現実の王国で -ヘンリー・ダーガーの謎- 




信じられるだろうか。私は多くの子供と違い、
いずれ大人になる日のことを考えるのが嫌で仕方がなかった。
大人になりたくなかった。いつまでも子供のままでいたかった。
今や私は年をとり、脚の不自由な老人だ。なんてことだ!
                                   ヘンリー・ダーガー



ダーガー2



1972年、生涯孤独に暮らしてきた老人の部屋から
「非現実の王国で」と名づけられた大量の奇妙な小説とその挿絵群が発見された。
その物語に描かれているのは大勢の少女たち。
ある時は荒れ狂う空の下で陽気にはしゃぎ、ある時は兵士と戦い、またある時は翼を持った幻想的な生き物に助けられる少女たち。そして、多くの絵の中で、少女たちは裸で、しかも男性器を付けているのだ。
彼の死後、この謎多き作品は急速に評価を得て、世界に広まった。
老人の名は、ヘンリー・ダーガー。

先日、ヘンリー・ダーガーのドキュメンタリー映画「ヘンリー・ダーガーの謎」を見てきたので、
これを機会に今回はダーガーについて少し書いてみようと思う。

映画公式サイト http://henry-darger.com/



ヘンリー・ダーガー

ダーガーがシカゴで生まれたのは、1892年4月12日。
母が死んだことも妹が里子に出されたことも記憶になく、やさしい仕立て屋の父と暮らしていた。
絵本や童話が好きで、学校に上がる前から新聞を読むことができ、1年から3年に飛び級もした。
8歳の頃に父が体を壊し、「慈悲深き聖母の伝道団」という少年施設に預けられる。
施設から公立学校へと通うが、口や鼻やのどを鳴らして奇妙な音を立て、ほかの生徒たちに嫌がられたという。その後、感情障害を示したとされたため、イリノイ州リンカーンの知的障害児の保護施設へ移される。
1907年、父逝去。
州営農場で働かされる施設での生活を嫌い、脱走を試みる。
何度かの挑戦ののち脱走に成功し、260キロを歩いて再びシカゴへ。
帰る家のない17歳のダーガーは、聖ジョゼフ病院の清掃人の仕事を見つけ、尼僧の宿舎の清掃も担当した。
彼は童話に安らぎを見出したが、望みは自分の究極の物語を書くことだった。
ダーガーは1909年、生涯続けることになる仕事に着手する....


それが
「非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の氾濫に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語」
略称『非現実の王国で』と名づけられた、全15巻、1万5000ページ強の世界最長の散文と300点以上に及ぶ挿絵群だった。


僕が最初にダーガーの絵を見たのは去年、原美術館でやっていた展覧会でだった。
圧倒だった。
トレースされた大量の少女が描かれていたのを見て、圧倒され過ぎてなんかもう、笑えた。(トレースされているせいで場面によって表情が不自然だったりしてそれも面白い一因)
加えて、とてもセンスの良い色使いにびっくり。
一見、奇抜な色使いをしそうな印象を受けるけど、そうではなく、とてもセンスのいい色使いに感慨だった。

さて、ダーガーを論じる時に必ず出てくる、幼児性、ロリータコンプレックス、統合失調症、などの精神分析に僕はあまり興味がないので、それには触れないことにする。
心理学的論考はそれはそれで面白いんだけど、どうもダーガーと精神分析を結び付けたくないという自分勝手な想いがあって、、そして、やっぱり、ダーガーの魅力はその謎だと思っているので、謎を謎のまま楽しみたいと想うから。
「ダーガーはたまたま病んだ精神を作品に昇華することができただけで、下手したら幼児虐待者になっていたかもしれない、いや実際していたのかもしれない」という話が出るのも分かるけれど(実際、この前取り上げた秋葉の殺人者と似ていなくもないところがある)、ホームレスのような風貌だったが隣人や大家に恵まれ、風変わりな、まあ気味は悪かったんだろうけど、憎めない人物であったことは関係者たちが証言しているし、ダーガーは犯罪者ではなかった。というのが紛れもない事実なので、そこを掘り下げる気はしない。
(このことに関して、芸術手帖での会田誠の論評がとても面白いんだけど、それはそれとして)

このような話がたくさん持ち出されるほど、ダーガーはある面から見れば精神病理的な絵を描いていたため、知的なもしくは精神的な障害者だと勘違いされることがある。
けれど、まあ精神的なことはともかくも、知的障害者ではない。
ダーガーが自身で書いた自伝や「非現実の王国で」は実際の歴史に影響されている部分(第二次大戦終結後に描かれたとされる絵には花畑で遊ぶ少女の絵が多数見られ、平和への願いのようなものも見られる)があったり、戦争の悲惨さや共産党の批判を自ら書き綴っているという点を見てもダーガーが知的障害者ではないと分かる。

しかし、一方でダーガーは幼い頃、知的障害者として育てられていた、という事実がある。
それは小学校時代、、ダーガーは、口や鼻やのどを鳴らして奇妙な音を立るなどの不穏な行動をしていたため(ダーガー自身は、級友を楽しませようとした。と語っている)、いじめられ、喧嘩などの騒動を繰り返したために、教師や医師から感情障害を示したとされ、知的障害児の保護施設へ移されてしまったのだ。
確かに不遇な境遇に生まれたために、感情障害を起こしていたとしても、知的障害ではないダーガーをいきなり知的障害児の保護施設に連れて行くのはあんまりだ。
そして、そこで5年間も過ごすのだから考えただけでも気が滅入る。
ここでのできごとがトラウマとして「非現実の王国で」の「子供奴隷」のモチーフになったんじゃないかと思われる。

さて、肝心の「非現実の王国で」。
そのあらすじはというと、、
非現実の王国では、子供奴隷制を敷き卑劣な虐待を繰り返す大人の男たち「グランデリニア軍」に対抗し、それを解放、救出しようとするキリスト教国連合軍「アビエニア軍」と7人の少女「ヴィヴィアン・ガール」(ヴィヴィアン・ガールは射撃の名手にして変身の名人、残虐な拷問にも耐える強靭な戦士)、そして、ヴィヴィアン・ガールを助ける、少女の顔をしながら長い尾と羊の角を持つ「ブロンギグロメニアン・サーペント(総称ブレンゲン)」(ブレンゲンは”どんな母親の愛を凌ぐほど”の愛情でヴィヴィアン・ガールを守る!)が激しい戦争を繰り広げる。
しかも作中にダーガー自身もいろいろな役割で登場する。というもの。
「子供VS大人」もしくは「少女VS大人の男」という戦記ものなわけです。
この戦いの挿絵の中には、無残に臓腑を引き出された少女の死骸が大量に張り付けにされてる描写だとか、首を絞められて白目を剥いている描写だとか残酷なものがたくさんあり、その一方で花畑で遊ぶ可憐な少女たちを描いたものもあり、と、やりすぎだろってくらい残酷な描写の次に、これまたやりすぎだろってくらいの素敵な描写があったりと、なんかもうクラクラする。
しかも、少女たちはペニスをつけていて、それがトレースで大量に溢れているので、もうなんか分からんけど、凄い!としか言いようのない代物なわけで。
なんでこんなの描き続けたんだろう、しかも40年ものあいだ、密室で、ヘンタイかしら。と考えてしまう。そして、どっぷりとダーガーに惹きつけられてしまう。


ヴィヴィアン

<戦うヴィヴィアン・ガール>


ブレンゲン

<ブロンギグロメニアン・サーペント(ブレンゲン)>


虐殺1

<グランデリニア軍の虐殺>


僕がダーガーを大好きな理由は、作中のいたるところに散りばめられた両義性。
一見メルヘンな世界にはアンチメルヘンな要素が入り混じり、作中に出てくるダーガーでさえもグランデリニア軍側についたり、ヴィヴィアン側についたり、はたまた全然関係のないジャーナリストとして物語を俯瞰したりもする。
さらには、少女たちはアンドロギュヌスで、女嫌いなのに少女ばかりを描き、神を深く信仰しながらも一方で深く憎んだり、と物語自体も両義的で、そしてダーガー自体が抱える矛盾が、酸いも、甘いも、苦いもが、これでもかと物語に吐露されている。
吐露されているんだけど、ドロドロしてるようには見えなくてなんか拒否することができない。
むしろ、なんかかわいい。と、見てるこっちまでアンヴィヴァレンスを引き受けてしまう。
だから、ダーガーの絵を、芸術的だ!のひとことで片付けることはできないし、ヘンタイだ!のひとことでも片付けることができない。
混沌としたメルヘン、これがダーガーの魅力だ。
ここにダーガー研究の第一人者であるジョン・M・マクレガーのすごく共感させられる名文を引用してみる

『王国』を通して、ダーガーは混沌の世界を描き、文明が崩壊する過程を描いている。
戦争、奴隷制、道徳の瓦解はさらに大きな解体の一部にすぎない。
世界崩壊の妄想に囚われながら、彼はどうにか際に生きていた。
多分自分自身をも含む、人間の中にひそむ悪の限りない可能性に苦しみながら、幼子のように神への信仰にすがりついていた。
雲の中から神が現れ、秩序を回復し、正義をもたらしてくれることを願いながら。
しかし神が何もしてくれないとこを知り、ヘンリーは狼狽した。このことが『王国』の探検を促した。


では、その探検の結末は、いかなるものだったか.....
実は、「非現実の王国で」のクライマックスは、二通りある。
それはヴィヴィアンガールたちがグランデリニア軍に打ち勝つもの、そしてもうひとつはヴィヴィアンガールたちが窮地に追い込まれ激しい戦争をまた繰り返すもの。ここにもダーガーの両義性を見てとれる。
そして、一応はクライマックスを迎えた「非現実の王国」だが、実は「シカゴにおけるさらなる冒険」という続編が存在している(8500ページも!)。
きっとダーガーはこの王国から離れたくなかったんだろうな。


さて、映画を見てきたので。と書いたが全く映画について触れていないので、感想をば。
まず衝撃的なのはダーガーの絵が動くこと。
これについて賛否両論あるみたいだけど、僕は演出の効果としてとても良かったと思う。
この映画自体が、大家の妻や隣人などの証言を交えつつダーガーの実人生を辿りながら、非現実の王国のストーリーを平行させていくという現実と幻想を行ったり来たりする演出なので、動くダーガーの絵はとてもマッチしていたように思う。この夢うつつな映画構成がとても素敵だった。
孤独な人生を送ってきたとされるダーガーだけど、おかしな風貌にもかかわらず大家や隣人にとても恵まれていたようで、声をかけてもらっていたり、誕生会をしてもらっていたり、晩年、足が悪くなってからは介護もしてもらっていたようだ。(その隣人って人がいかにもやさしそうな人で、ほっこりしてしまう)
人付き合いがうまくなかったダーガーが大家の飼っている犬のユキに興味を示し、かわいがっていた。というエピソードも素敵だった。
そしてもっとも興味深かったのは、、、

晩年、ダーガーは体調を悪化させ、養老院に入ったため、大家がダーガーの部屋の整理していた時に小説と絵が発見される。その作品に大家や隣人は皆驚かされる。
養老院にいるダーガーに、それを見た隣人が「君の作品を見たよ。素晴らしかった」と告げると、不意打ちのパンチをくらったボクサーみたいに白目を剥いたという。
そしてダーガーはこうつぶやいた。
「もう遅いよ」

一体、この時のダーガーの気持ちはどんなだっただろう。

一年後、ダーガーは亡くなってしまう。81歳だった。


ダーガー1



ダーガーは、その人生の大半を密室で過ごしたため、資料といったら、自ら書いた自伝と日記、数少ない関わりをもった人たちの証言ぐらいしかない謎多い人物で、加えてその小説、挿絵がまた謎だらけで、それ故に精神分析やらいろんな見方をされているけど、僕はやっぱりそういうものにはあまり興味がなく、僕の中では、よう分からんけど、凄く現実的で、凄く幻想的で、もうなんか凄い変で、素敵な人。ということになっています。
ダーガーの墓標には「子供たちの守護者」と刻まれているそうなんだけど、これがダーガーに一番ぴったりなんじゃないか。と僕は思う。











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秋葉原の無差別殺人について 


明日、世界が終わるとしたら、あなたは何をしますか?という問いの答えは、
愛している人と一緒に過ごす、家族と過ごす、おいしいものをたらふく食べる、普段通りの生活をする、ただ寝てる、女とやりまくる、人を殺す、など様々。

そう、彼にとっての世界は終わっていた。
彼が選択したものは、秋葉原という劇場での大量殺人だった。
しかし、世界は終わらなかった。
そんな彼が警察に捕まって、犯した殺人の理由として口に出した言葉は「世界が終わったから」ではなく「生活が苦しかったから」だった。
のちに自分がブサイクだから、だとか、彼女がいなかったから、だとか、親のせいだとか、ケータイブログに吐露された「動機のようなもの」が垣間見えることになるのだけれど。



先日、起きた秋葉原での殺人を、自分なりに整理してみようと、書いて、みる。
ただ、この事件について、ワイドショーの報道の仕方がどうこう、社会の仕組みがどうこう、というものについては保留することにする。
この類の事件の報道のされ方には鋳型があって、いつもそれ通りに報道されていくだけだと辟易しているし、このことについては酒鬼薔薇以降、多くの言及が成されているから。(報道の鋳型については後に触れる)
加えて、事件を理屈や精神分析などでは説明できないし、説明すべきでないことまで必要以上に(こじつけ的に)説明することには、意味がないと感じるし、そこから導き出される答えにもやはり意味がないと感じるので。社会の仕組み云々になったら尚更。
とても勝手な言い分だけど、僕自身関心があるのは社会の仕組みからみた猟奇的殺人ではなく、彼(事件)への共感と反感だ。



彼が世界を終わらせることができた理由。
報道で流れる、彼のブログから見てもわかるように、彼はかなりの被害妄想癖だ(そして太宰治型ナルシシスト)。
彼をそのようにさせた理由は、彼の外見コンプレックスからかもしれないし、いじめからかもしれないし、本当に親のせいかもしれない。しかし、その理由についても保留する。
問題は、彼がそれを加速させたこと。
加速させてしまった理由は、おそらく「最悪」を他者へ責任転嫁し「シンプル化」したことにあるんじゃないかと思う。

彼はつねに「最悪」の場面を想定して生きていた。
もしくは「最悪」をさらけ出すことによって自身を守っていた。
この事で思い出すのが、
「私は、何にも期待してません。いつも最悪な状況をシュミレーションしているんです。だって、そうすると最悪な場面に遭遇しても動揺しないし、それに最悪を想定しておけば、いくら期待通りにいかなくったって最悪よりはましだな。ってポジティブに考えられるじゃないですか」
という深田恭子の言葉だけど、これは置いておいて。

彼は、自分の状況の常に「最悪」の位置を探し出し、そこに立つことによって自分を守っている。
守っているだけでなくて、ここには潔癖症のようなものが垣間見える。
今、自分のやっていることは本当に大丈夫なことなんだろうか?
自分は他人から認められているんだろうか?
自分の選択は正しいんだろうか?
誰か教えてよ。
そして僕を見て。
ねぇ、助けてよ。
というようなエヴァンゲリオン症候群とでもいうような、潔癖な存在の不安が根底にあるように思う。
自分はだめだ、でも他人に認められたい。でも他人は僕を虐げる。だったら他人なんて、世界なんてなくなってしまえばいいのに。と。
不安から逃れるために、他者の排除という方法で彼はこれを処理した。

そして「最悪」は「他者」に向けられ「シンプル化」されていく。
ムカツイタ→コロス、カノジョガデキナイ→ブサイクダカラ、ブサイク→オヤノセイ、センスガナイ→オヤノセイ、タノシクナイ→オマエラノセイという「他者のせい」になっていく。
彼がすべてを他者のせいにして、自分の否を全く認めていないとは思わないけど、図式を単純化することによって、そのような複雑な要因を排し、悪をつくりだし、その悪を倒せばあたかも問題が解決する、という恐るべきシンプルさを持って彼は行動をしていった。(彼女ができていたら、本当に彼の世界は終わらなかったかという疑問については答えるべくもない)
これは言ってしまえば二元論的であり、キリスト教で言うところの悪魔であり、闇であり、仏教(正確には仏教の一部の宗派)でいうところの鬼であり、地獄であり、アメリカでいうところの悪の枢軸であり、イラクだけど、それは置いておいて。

彼は、物事をシンプル化することによって殺人をする動機を手に入れた。
そして、さらなるシンプル化、悪を「記号化」することによってそれを実行した。
戦争で相手を生身の人間として、ましてや相手の家族や友人、人生のことなどを考えたら、大量殺人ができないように、彼は相手を記号化した。
おそらくこの時点で彼は他者云々なんて考えていなくて、背徳的なナルシシズムが彼の多くを占めていたんじゃないかと思う。アニメの残虐でクールなキャラの想像でもしながら。
そして、鬱屈したパトスを放出すべく、あの劇場型無差別殺人を実行した。



この事件を見て、僕が強く感じたことは、世界はそれほど単純じゃない。ということだった。
別にこの事件じゃなくたって、たいての事件にあてはまるけれど、結局行き着くところはここだった。というのも自分がいつ被害者になるか分からない。という反面、自分がいつ加害者になるか分からない。という可能性も考えてみなくてはいけないと感じたからだ。
彼の被害妄想と自己顕示欲が混ざり合った言動は、僕も思春期に体験したことがあるし、今現在それがすべて無くなっているとは言えない。いつどんな時にそれが鎌首を上げてくるか分からない。世界をシンプル化し、それに憎悪を加えたら、大変なことになる。という戒めをしなくてはいけないと思ったのだ。

最初に僕は、彼への共感と反感と書いたけど、
それは、世界は酷いものだ。ということに対して共感し、しかし酷い世界だけではない。と反感したのだった。
二元論的ではなく、価値観はひとつではなく、常に世界は多様性を孕んでいる。その豊穣性、遇有性を見なくてはいけない。酷い世界を素晴らしい世界に変えるのではなく、酷い世界と素晴らしい世界は常に混在している。

混在している。
彼は、きっとこの殺人に対し、自分のやっていることが正しくないと気付いていたはずだ。
気付いていてもやってしまったのだ。
捕まえてくれ、という彼の断末魔は決してナルシシズムから出たものばかりでなく、罪悪感も含まれていたはずだ。
しかし、これは心の叫びではない。
心の叫びとは人間性善説にのっとった考えだ。
彼は同時にこういうことも思っていた。しかし実行した。

世界をシンプル化してはいけない。シンプル化しているのは彼だけじゃない。報道もだ。
彼の多様性を無視し、殺人犯的な殺人犯にし、被害者を被害者的な被害者にし、二項対立の図式で説明する。こうしなくては円滑に報道が進まないという理由があるのだろうが、そんなことは知ったことじゃない。酒鬼薔薇から、いやきっともっと前から続いているこのことに気付かなくちゃいけない。


この日記の最後に。
自分なりになんとか、あの事件を整理してみたけれど、これで事件が分かったなんて思ってはいません。
彼がどのように育ち、どのように物事を考えてきたかなんて知るすべもないし、なぜ被害妄想をもつようになったか、なぜあれほど、他人に固執するようになったかなんて分からない。ましてや、事件の動機などは分かるはずもない。だから、事件はこういう理由で起こったんだ。ってことは言えない。
この文章は、あの事件の後、報道を見ながら、一側面を好き勝手に抜き出し、そこから感じたことを書いたにすぎない。



旅の仲間 -澁澤龍彦と堀内誠一による航空書簡より- 

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澁澤龍彦、堀内誠一の約20年に及ぶ全67通(澁澤龍彦24通、堀口誠一43通)の往復書簡展
渋谷 ギャラリーTOM にて

 ギャラリーTOMは吹き抜けワンフロアに、そこから階段で登るグルニエのみっていう小さなギャラリーだけれども、明るくて雰囲気がよく、好きなギャラリーのひとつ。
 
 ギャラリーに入ると壁一面に澁澤、堀内の往復書簡が展示してある。
 堀内誠一の手紙には色鮮やかなイラストがついていて楽しめる。両氏が写った写真パネルも何点か飾られていた。(その写真がとてもカッコよかった!)
 この日は、両氏の盟友であり、仏文学者の巌谷國士氏のトークイベントがあるということもあってギャラリーはすごくにぎわっていた。

 「旅の仲間」ってタイトルは澁澤と堀内が旅行仲間だった。ってわけではなくて(正確には旅行も一緒にしているが)「旅」=「人生」といった具合に訳される。巌谷國士らしいタイトルの付け方だ。

 
さて、澁澤龍彦の友人といえば、三島由紀夫や土方巽、四谷シモン、金子國義といったディープな人物があげられるけれども、巌谷國士曰く、本当に気が合い、仲が良かったのは堀内誠一ではないだろうか。ということだ。
 澁澤の生まれたのが1928年、堀内が1932年、と両氏はほぼ同年代。
巌谷氏の解説によると、両氏の仲がよかったのは同年代に生まれ、同じような映画、アニメ(武井武雄など)を見て同じ時代を過ごし、共通のノスタルジアを持っていたのではないか。そして、それは個人が持つ懐かしさとは違った、同時代における共通した本質的な懐かしさが二人を引きつけたのだろう。年は4歳はなれていても、おなじ東京で生まれて同時代をすごし、おなじものを見て成長してきたという一種の連帯感が、人生という「旅」の仲間のあいだに、浸透しつつあったかのようである。と。
 
 さらには両氏の仲には親密で共犯的なようなものがあったらしくお互いの手紙の内容を自分の仕事のネタにしたりしていたらしい。しかし、パクリ云々などで騒がない、あっそうなんだ。という軽い目配せですますことのできる信頼関係が成り立っていたそうだ。

 そもそも澁澤と堀内が親しくしはじめたのは、1968年澁澤龍彦責任編集として刊行された雑誌
「血と薔薇」のアートディレクションを堀口に任せた時からだった。
 この雑誌は《エロティシズムと残酷の綜合研究誌》と銘打たれ、60年代の澁澤の仕事を総括するような内容の雑誌で、聖セバスチャンになりきった三島由紀夫のグラビアやら稲垣足穂、埴谷雄高、吉行淳之介…といった相当たるメンバーのエッセイやらオナニー機械やポルノグラフィティの特集やら、、とまあかなりディープでカルトでカオスで艶っぽくて、黒光りしていて、絢爛豪華で、とすごい雑誌だったわけで。
 
 ここで、面白いので刊行の際に掲げられた「血と薔薇宣言」を抜粋。
 (おそらくアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」の影響を受けてるんだろうなあ)


一、本誌『血と薔薇』は、文学にまれ美術にまれ科学にまれ、人間活動としてのエロティシズムの領域に関する一切の事象を偏見なしに正面から取り上げることを目的とした雑誌である。したがって、ここではモラルの見地を一切顧慮せず、アモラルの立場をつらぬくことをもって、この雑誌の基本的な性格とする。


一、およそエロティシズムを抜きにした文化は、蒼ざめた貧血症の似而非文化でしかないことを痛感している私たちは、今日、わが国の文化界一般をおおっている衛生無害な教養主義や、思想的事大主義や、さてはテクノロジーに全面降伏した単純な楽天的な未来信仰に対して、この雑誌をば、ささやかな批判の具たらしめんとするものである。エロティシズムの見地に立てば、個体はつねに不連続であり、そこに連続の幻影を垣間見るにもせよ、一切は無から始めるのであり、未来は混沌とした地獄のヴィジョンでしか生まないであろう。


 いやあ、素敵。
 60年代の澁澤龍彦は、有名なサド裁判から分かるように(上記の宣言を見てもわかるように)異端、オカルト、エロティシズムと世間に疎まれつつも一方に熱烈なフリークを持つ存在だった。
 
 そんな澁澤に堀内は1970年、自身がエディトリアルデザイナーをつとめることになった女性誌ananの創刊号に澁澤のエッセイの連載を依頼する。(ちなみに堀内氏は日本の雑誌におけるデザインを重視したパイオニアで、現在においてもanan、ブルータス、ポパイ、オリーブのロゴは堀内氏のデザインしたものが使用されている。)今では頻繁に組まれる、雑貨、小物特集だが、これはananではじめて取り上げたもので(「かわいい」という言葉が流行るようになったのもこの頃から。)この雑貨の特集から連想された人物が澁澤龍彦だった。
 
 この雑貨=モノの発見、モノの紹介というのは、形は違えど澁澤が60年代から自身のエッセイで取り上げていたものでもあり、70年代に入り日本の社会が安定、生活水準の向上等の影響で、いろいろなモノが商品化され、街には物があふれていることに堀内が目をつけ、澁澤に依頼したらしい。いわば、異端のポップ化商品化といったところ。(例えば、昔は異端、カルトとされていた、骸骨。ガイコツはいまやポップイコンになっている。)
 
 しっかし、トレンドと異端の結びつけをする堀内氏の奇抜さはすごい。この沸騰時代ならではの組み合わせが本当に魅力的。そういえば澁澤はその後、花椿にも連載をした。花椿に澁澤龍彦だなんて、なんて素敵な時代なんだろう。
 
 さて、このように澁澤は、60年代の「澁澤龍彦」を商品化することを承諾するが、一方で、このころから澁澤は60年代の澁澤龍彦から決別するように、違う場所へと向かっていた。
 
 それは彼の著書 「夢の宇宙誌」から「思考の紋章学」へ至る軌跡を見てもわかるように異端、オカルトからモノへの哀愁、自然物への寵愛、さらには幼年期の回想へといたり、自身のミクロコスモスへと向かい変化していく。
 その中でももっとも大きな変化が「旅」だ。
 書斎派と呼ばれていた澁澤は1970年にヨーロッパへ旅立った。
 そしてその後も3度に渡りヨーロッパ旅行をしている。この変化を自身で、「観念の時代から視ることの時代への変化」と語っている。(一回目の旅行からの帰国直後に、盟友 三島由紀夫の自死。以後、澁澤はさらに大きく変化する)

 一方、堀内のほうはそれよりずっと早く、1960年からヨーロッパになじんでいて、1974年には家族とともにパリ近郊のアントニーに住みつき、1981年までの7年間をそこで過ごす。
(澁澤龍彦にあてた43通にもおよぶ手紙は、すべてその間の描かれ書かれたものだった。)
 澁澤の計4回のヨーロッパ旅行のうち3回目のフランス・カタルーニャ旅行(1977年初夏)と、4回目のギリシア・イタリア旅行(1981年夏)には、堀内夫妻と、ときに長女の花子が同行した。
 その間の個人的体験、さらに「仲間」として共有した体験もまた、ふたりの手紙のなかで回想されるようになる。

 そして、晩年。
澁澤は、エッセイの領域から小説へと至り、ヨーロッパ嗜好から日本へ目をむけるようになる。
 お互い、晩年に至っても往復書簡はつづく。
が、しかし、1979年以後は、澁澤龍彦からの手紙だけがのこされている。(以後、巌谷氏の解説を抜粋)
 
堀内誠一は帰国後も世界各地への旅をくりかえし、絵本制作やアートディレクションや著書執筆の仕事を精力的に進めていたが、86年6月、下咽頭癌を宣告される。
 それを知って澁澤龍彦が手紙に書いた言葉――

「放射線の照射をはじめられたそうですが頑張ってください 咽頭は治癒率がいちばん高いそうですから現代医学を信頼してもよいのではないかと思います」(1986年7月17日付)

には、胸をつかれる。
 なぜなら、そのころ近所の病院で誤診されていた澁澤龍彦自身、2か月後の9月に、おなじ下咽頭癌の診断をくだされ、11月には大がかりな除去手術し、声を失うことになるからだ。
 
 最後の便りは1987年6月の、澁澤龍彦からの葉書だった。
大手術後に退院、驚くべき意志の力で連載長篇小説『高丘親王航海記』の最終回を書きあげたのち、だが癌が再発し、再入院してからのものだった。

「いま『高丘親王航海記』加筆中です 秋には本になります 貴兄もどうか御養生専一に いつのまにか夏になりました」(6月23日消印)。


 けれどもその秋は来なかった。
 8月5日午後、病室で読書中に逝去。享年59.
 一方の堀内誠一も、6月までは絵本や新雑誌の企画などの仕事をつづけていたが、病状がにわかに悪化し、7月末に再入院。
 8月17日の午前、54歳の若さで逝去した。
 
 幼少期には共通の絵本や映画や町の風景を見て育ち、やがて戦後の一時期に知りあい、ともに遊びともに仕事をし、ともに旅をし、手紙のやりとりの間にもひそかに友情を深めていったこの「旅の仲間」同士は、最後にはまったくおなじ病におかされ、たった11日ほどの間をおいて、ともに旅立っていった。

 以上が巌谷氏のトークと解説文をもとに60年代後半から死に至るまでの、澁澤龍彦、堀内誠一の関係のまとめレポート。
 本当は、歴史、経緯云々をすっとばし、両氏の手紙を交えつつ、もっと関係を露にしたものが書ければと思っていたけれど(歴史を辿っていったので、かなりの長文になってしまった。)展示されていたものが手紙のみということと、展覧会当日時間があまりなく巌谷氏のトークのあとは展示物をさらっと見ただけで会場をあとにしてしまったので、、
 けれども。
 この両氏の手紙全てをコンプリートした書籍が発売されるということなので、近いうちに買って、また
徒然と何か書こうかな。とも思っています。

 会場には、澁澤夫人、堀内夫人もいて、なんだか遠い過去のこと、と思っていた澁澤龍彦の時代が、今もまだ続いているのだなと。感慨に耽りました。

澁澤 旅の仲間3

shibusawategami



ブログ、はじめました。 

今日からブログをはじめます。
ブログ。。右も左もさっぱり分からん状態ですが、きっとそのうち慣れるでしょう。
ブログをはじめるきっかけってのがありまして。
会うと、政治やら芸術やら世界情勢やら宗教やら、云々という、しち面倒くさい面白い話をする友人が何人かおりまして。
けれど、距離やお互いの都合でなかなか会えなくて。
だったら、ブログでオープンにぶちまけてみない?
と何人かの友人を誘ってブログをはじめてみることにしました。

ルールがひとつだけ。
それは、真剣に書く。ということ。

、、、と書きましたが、肩肘張って書くという意味ではなくて。
むしろ力を抜きつつも、真剣に考えていることをぶちまけていくブログにしようと。
まあこういった具合です。

でもまあ、気楽に読んでいただければ、えぇ
しかし、何人かの友人を誘ってブログをはじめたといいましたが、計画としましては、
とりあえずリンク張って、、、
ってぐらいしか考えていないほぼノープランな状態です!
でも、まあ、きっとね、なんとかなるよ。
慣れよう、ブログにね。
ってな具合でよろしくおねがいします!

この誘いに渋々ながら、いや、とっても好意的に承諾してくれた、僕の数少ない友人さん、ブログ登録したら御一報ください。そう、そしてリンクを張ろうぜ!

では、では
今後、よろしくお願い致します。

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