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3つの部屋の合奏、夏の日 

exhi1_main.jpg
(これは前回の展覧会の会場)


浅草橋、パラボリカ・ビス。
大友良英の「ENSEMBLES 09 休符だらけの音楽装置」展のクロージングコンサートへ行ってきた。


クロージング・コンサート 〜最後の祭りにつきあって欲しい人達。〜
「コロスケ&くるみ&飴屋法水」、伊東篤宏、utah kawasaki、Sachiko M、大友良英


で、これが、まあ、戸惑いました。
何だこれ?状態。
(ちなみにコロスケは飴屋さんの奥さんで、くるみは娘さん。3歳くらいかなあ)

3つの部屋(図参照)で同時多発的に演奏がされ、観客は好き勝手に移動して聴く。演奏者も移動する。
というもの。
大友良英って人を知っている人は、この人の音楽が一筋縄でいかないことは分かると思います。
人によっては苦痛以外の何ものでもないっていう人もいるのではないか。
ひたすらノイズ、とかひたすら長いとか、70年代に流行したフリージャズの流れを汲むようなエレクトロニカノイズサウンドなわけです。


Image240.jpg

■部屋1(ここはギャラリーショップ兼カフェ)
大友さんが何やら得体の知れない装置でノイズエレクトロニカを流しはじめる
装置の前には桶。

■部屋2(I'm Here .. departuresっていう作品が展示してある部屋)
ここでもutah kawasaki、Sachiko Mによってノイズが流れ出す

■部屋3(Filament / 4 speakersっていう作品が展示してある部屋、真っ暗)
それに加えて蛍光灯で音楽を奏でるという伊東篤宏の演奏装置が設置されている。
赤、緑、青の光とノイズが流れ出す。
(蛍光灯の音楽ってのはこんな感じ。この日は山川冬樹さんも遊びにきていた。)
SONY "WALKMAN" CM『伊東篤宏×山川冬樹』篇
http://www.youtube.com/watch?v=bjlbwX0hZKU


この3つの部屋からは常に音が流れている。
部屋1と2の扉は開いていて、ギャラリーのどこにいてもずっと音が聞こえる。
飴屋さんファミリーはその部屋を行ったり来たりしながら何やらやっている。
僕はひとつの部屋に留まって聴くのではなく、飴屋さんを追ってみることにした。


飴屋さんがバケツに水を汲み、部屋1の大友さんの装置の前の桶にバケツの水をうつす。
そしてそこで線香花火をはじめる。
その様子を飴屋さんの奥さんと娘のくるみちゃんが見に来る。
花火を楽しむ。
もうすぐ夕暮れ。時刻は18時過ぎ。
花火が終わると、その桶に花びらを撒く。

部屋3(暗い)に移動。
またバケツに水を汲み、花火をはじめる。
娘もやってくる。

部屋2に移動。
動物の積み木(おそらくくるみちゃんのおもちゃ)をばらまきはじめる。
木がコンクリートの床に落下する音がした。

部屋3(暗い)に移動。
袋いっぱいの小銭を天井に向けて投げつけはじめる。
小銭が床に落ちる音と蛍光灯装置のノイズと光が混じる。

飴屋さん、階段に座り込んで、鈴を鳴しはじめる。
しばらく、延々と。
その間、部屋1と2からノイズエレクトロニカが漏れ聴こえている。
何やってんだろ?と外国人観光客が覗きにやってくる。

飴屋さん部屋2に移動。
座り込んで、手作りグロッケンやこども用の茶碗、箸、動物積み木、親指ピアノで奥さんとくるみちゃんと合奏。
途中、観客として来ていた山川冬樹もまじって合奏(と言っていいのかわからん。ただ遊んでいるだけにしか見えんかった)がはじまる。
様々な音が鳴る。

僕は思う。
これはなんだ。
このだらだら感は、このまったり感はなんなんだ。
平和そうな家族だなあ。
ノイズがずっと聴こえている。
日が暮れてきたなあ。
(ここまでで1時間くらいたっていた気がする。時刻は確か19時ちかく)
気だるくなってきたので、タバコを吸う。

飴屋さんがギターを取り出す。
ギターに弦は張っておらず、ボディに数個のプッシュピンが刺さっている。
このプッシュピンを手のひらでこすり合わせて、キュッキュッという音を出しはじめる。

部屋3(暗い)に移動する。
また座り込んでプッシュピン、キュッキュッをする。
延々と。
蛍光灯ノイズがいろいろ鳴っている。
しばらくすると大友さんがギターを持ってやってくる。
アンプにつないで、何やらノイズを鳴らす。
飴屋さん、キュッキュッ
蛍光灯、ピカピカ、ノイズ、ブィーン
ギター、キュイーン
しばらくそんな具合。
僕、眠くなってくる。
うつらうつらしてくる。
僕、目を覚ます。
あっ、合奏になってる。セッションしてる。

飴屋さんがギターを床にこすり付けてさっきより大きな音キュッキュッを出している。
リズムになっている。
蛍光灯もリズムのようなものなってきている。
大友さんのギターノイズもそれに合わせて鳴っている。
無秩序なノイズにリズムが生まれて、それに吸い寄せられるように各人の音が少しずつ集結されていく。

なんだこれ、すごくないか!
この音すごいな!

山場を迎える。
合奏終わる。
飴屋さんと大友さん、部屋3に移動。
大友さんギターを爪弾いている。
飴屋さんぐったりしている。
たぶんこれがアウトロ。

で、終わり。


なんだこれーーー
ひえー
いや、最後のセッションはなんかすごかった。
うん、でも何なんだこれ。


で、もやもやしながら帰ってきたんだけど。
あれはなんだったんだろ。ってずっと考えていた。

現代芸術もあそこまで好き勝手だと、苦痛だわ~
みたいな少しのイライラ感と
でも、最後のカタルシスな音の集合は、なんかすごかったなあ
っていう思いと。

なんか大きなものが残った。

ありゃ一体何なんだ。

家に帰ってネットしてたら
ある日記を見つけた。
このイベントに行った人の日記だった。

そこにはこう書かれていた。

---
飴屋さんがバケツに水を張って、窓をあけて、そして線香花火を灯したときに、すこし夕暮れで、そのありように涙が出てきた。
ご家族もそばにいて、小さな声で話していたり、とてとてと歩いていたり。
飴屋さんのファミリーも出演者で、その意味がとてもよくわかった。
ひとつひとつ目にするたびにぐっときて大変だった。
音楽と生活することとそこに居るということと特別なことではないのだなぁと不思議にすごく落ち着いた気分でゆったりした。
---

あぁ。っと思った。

これ読んだ瞬間に今日のことが、なんというかちゃんと体内に吸収された。
しばらく、ぼーっとなった。

感じていたのはこれだ。言葉にできていなかったけれど、これだったんだなと思った。


線香花火、夕暮れ、ノイズ、積み木遊び、暗闇、光、家族、夏の日、音、音、音、


3つの部屋の合奏。
というか、蝉の鳴き声もべちゃくちゃした世間話も、おそらく階段の足音すらも、音楽の一部だったのかもしれない。建物全体が音楽だった。
そんな音楽の場所に、みんながいた。
飴屋さんたちが音で遊んでいた。
くるみちゃんがかわいかった。
やさしい雰囲気。

そんで、最後にすごい音のうねりが生まれた。
くたくたになった。

音の集まりと、ある夏の日の、穏やかな家族の風景が合わさって、聴こえていたんだ。

あーー、そうか。 そうか。 


この事に気付けて本当によかった。
あの日の日記を書いてくれて本当に、ありがとう。
自分には、そのやさしい眼差しが足りなかったんだ、と少し反省した。

あの日の合奏が、今さっきの出来事のようにも思えるし、もう何十年も経ってしまった思い出のようにも感じる。

すごくやさしい、夏の日だった。

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松井冬子について 


僕は、松井冬子の絵を観ると、なんか落ち着く。
このなんか落ち着く。って感じるのは、
藤原新也の人間が犬に喰われている写真を見ていると落ち着くって感じるのに似ていると思う。
藤原新也は死を想えで、松井冬子は痛みを想えといったところだろうか。


wn_20090214_01.jpg
《浄相の持続》


先日、松井冬子展覧会「松井冬子について」を観に、九段下の成山画廊へ行ってきた。
無機質なビルの一角にあるとても小さな画廊だけど、澁澤龍彦展や恵比寿の写真展でも御目にかかれたシュルレアリスム作品やウィトキンやモリニエなど刺激的で耽美的なものを多く所有し異彩を放つ画廊だ。
画廊主である成山明光氏は、その育ちの良さが言動に観てとれ、そしてミステリアスな雰囲気も持ち合わせるとても素敵なひと。

画廊内は、松井冬子の展覧会に合わせ、トゲのある百合が飾られ、御香が焚かれ、それらが作品を際立たせていた。

今回、展示されていた作品は

《夜盲症》
《完全な幸福をもたらす普遍的万能薬》
《腑分図:右鼓膜》
《試作》
《優しくされているという証拠をなるべく長時間にわたって要求する》
《成灰の裂目》
《浄相の持続(フォトグラヴェール)》
《切断された長期の実験(ジークレープリント)》

モチーフや言論、そして自身のヴィジュアルからキワモノ扱いされているみたいだけど、実際の松井の作品の前に立つと、そんなことより作品の凄みに圧倒させられてしまう。

ある番組で、社会学者の上野千鶴子が松井の作品を「自傷系アート」とカテゴライズしていたが、僕は、これには大反対で、こんなカテゴライズをしてしまうから、「病み」ばかりがクローズアップされてしまうんだ。と憤慨してしまう。
精神未発達の若者のような自己顕示欲からくるトラウマ、自傷、厭世とは一線を画している。
松井自身も、セラピーのために描いているのではないと言っている。
松井の作品はそれらが、ただ即興的に吐露されているだけのではなく、それらを客体化し、持続させている。
絹本に、天然顔料でつくられた岩絵具で、薄塗りで、明治以降に廃れてしまった裏彩色という技法を独学で研究、復活させそれを用いて描いている、この超絶技巧に裏打ちされた「痛み」は、見せびらかすためだけの自己顕示欲からは大きく逸脱して、芸術へと昇華されている。
「痛み」と「病み」はイコールではないのだ。


繰り返される受動による激しい苦痛の持続、また、内部に向けられた崩壊の予兆と破壊衝動、それらが形象化された絵画が見たいのです。
例えば、男性へのコンプレクスから女が自らの肉体を裂き、立派なミュラー氏管を見せびらかしている、そのような絵によって指し示したいのです。



と松井自身が書いているように、松井冬子の描くものは「痛み」だ。
実際、松井の作品のいくつかは、腹を切り裂かれ、内臓が飛び出ているものがある。
でも、それらが痛みの表現かと言われれば、僕は違うと思う。
腹を切り裂かれ、内臓が飛び出していても、僕は、それほどグロテスクには感じず、直接痛覚に働きかけてくるものとは感じなかった。
たぶん、松井の描く「痛み」というのは、直接的なそれではなく、その裏側にあるものではないかと思う。
その裏側にある精神的苦痛が肉体に表出されているのではないかと思う。
静謐としていて、上品で、だけど痛い。
この精神的苦痛を感じ取るのは、おそらく男性より女性の方なんだろうなと思う。
女性だけがもつ生理的な痛み、そして男と違い肉体と精神のシンクロ率が高いその痛みと男性に理解されないその想いとが共振するのだろう。
事実、松井のファンは女性が多い。

男性は直接に攻撃的な作品を作ります。
女性の作品は受動された鬱屈による放出ですね。
たとえば上村松園、草間彌生、ニキ・ド・サンファール、ジェニー・ホルツァー。
ああいった作家も直接的な攻撃性というのではなく受動されて積み重なったものによる攻撃性があると思います。


と松井は語っている。
先に紹介した上野千鶴子はこれを「ジェンダー化された痛み」と言い表していた。
画壇に位置する人物は男性が多いため、松井の絵が評価されても、本当に本質が分かっているのか。という上野の疑問から、
ジェンダー化された痛みの表現は、脱ジェンダー化せずに理解されなければいけない。
そうしなければ、この「痛み」は男性的な観点から見たら違うものになってしまう。この「痛み」に寄り添ってみる必要がある。
と言っていた。
この言葉には、とても共感した。
松井冬子についての文章や対談をいくつか読んでみたけど、その中に違和感を感じるものがあり、その大半が男の論者だったからだ。
彼らの多くは、松井冬子のキワモノ的な部分だけに対して述べていて、ちゃんと松井冬子の作品を論じているとは言い難かった。
ある対談では、松井が、そうではなく普遍的なものへのアプローチがある。と、(対談相手に)ちゃんと説明して話しているのに、一向に耳をかさず、話が噛み合っていかず、自分のロジックで説き伏せ、解釈していくという腹立たしいものまであった。
律儀に説明する松井がなんか健気にも思えてきてしまった。
松井の表現するそれが女性に近い側にあるものだったとしても、もう少し理解できると思うのだけれど。
権威とプライドで男性的にギトギトしたヒトにはそれを理解できないのだろうか。
彼らは権威ある芸術家と呼ばれ、多数に影響を及ぼしていく存在なのだから、その病的に保守的な様に、なんかうんざりもする。(男って厭だね。)
反面、松井はこのことについてちゃんとアプローチしていて、

男性が観てもわかるように描いているつもりなんです。
女性に向けて制作したい、同調してもらいたいけど、男性が観てわからないのは問題外。
美術はほとんど男性が占めている世界ですから。
ですから作品が、雰囲気や色が主体ではなく、ロジックである必要がある。


と、語っていた。


僕は、松井冬子の絵を観ると、なんか落ち着く。
このなんか落ち着く。って感じるのは、藤原新也の人間が犬に喰われている写真を見ていると落ち着くって感じるのに似ていると思う。
モチーフはもちろん、その細部への執着や技巧を見ていると心安らいでくる。
それは、「癒し」とは少し違っている、松井冬子の作品で表現される「痛み」と自分の「痛み」が共振しつつ、中和され溶けていくてるような心地がしてくるのだ。


そういえば、今横浜でやっている「わたしの美術館展」で茂木健一郎が《世界中の子と仲良くなれる》をキュレーションしていた。
茂木さんはどういう意図で松井冬子の作品を選んだのかなあ。気になる。


sekaijyuunokoto

《世界中の子と仲良くなれる》

非現実の王国で -ヘンリー・ダーガーの謎- 




信じられるだろうか。私は多くの子供と違い、
いずれ大人になる日のことを考えるのが嫌で仕方がなかった。
大人になりたくなかった。いつまでも子供のままでいたかった。
今や私は年をとり、脚の不自由な老人だ。なんてことだ!
                                   ヘンリー・ダーガー



ダーガー2



1972年、生涯孤独に暮らしてきた老人の部屋から
「非現実の王国で」と名づけられた大量の奇妙な小説とその挿絵群が発見された。
その物語に描かれているのは大勢の少女たち。
ある時は荒れ狂う空の下で陽気にはしゃぎ、ある時は兵士と戦い、またある時は翼を持った幻想的な生き物に助けられる少女たち。そして、多くの絵の中で、少女たちは裸で、しかも男性器を付けているのだ。
彼の死後、この謎多き作品は急速に評価を得て、世界に広まった。
老人の名は、ヘンリー・ダーガー。

先日、ヘンリー・ダーガーのドキュメンタリー映画「ヘンリー・ダーガーの謎」を見てきたので、
これを機会に今回はダーガーについて少し書いてみようと思う。

映画公式サイト http://henry-darger.com/



ヘンリー・ダーガー

ダーガーがシカゴで生まれたのは、1892年4月12日。
母が死んだことも妹が里子に出されたことも記憶になく、やさしい仕立て屋の父と暮らしていた。
絵本や童話が好きで、学校に上がる前から新聞を読むことができ、1年から3年に飛び級もした。
8歳の頃に父が体を壊し、「慈悲深き聖母の伝道団」という少年施設に預けられる。
施設から公立学校へと通うが、口や鼻やのどを鳴らして奇妙な音を立て、ほかの生徒たちに嫌がられたという。その後、感情障害を示したとされたため、イリノイ州リンカーンの知的障害児の保護施設へ移される。
1907年、父逝去。
州営農場で働かされる施設での生活を嫌い、脱走を試みる。
何度かの挑戦ののち脱走に成功し、260キロを歩いて再びシカゴへ。
帰る家のない17歳のダーガーは、聖ジョゼフ病院の清掃人の仕事を見つけ、尼僧の宿舎の清掃も担当した。
彼は童話に安らぎを見出したが、望みは自分の究極の物語を書くことだった。
ダーガーは1909年、生涯続けることになる仕事に着手する....


それが
「非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の氾濫に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語」
略称『非現実の王国で』と名づけられた、全15巻、1万5000ページ強の世界最長の散文と300点以上に及ぶ挿絵群だった。


僕が最初にダーガーの絵を見たのは去年、原美術館でやっていた展覧会でだった。
圧倒だった。
トレースされた大量の少女が描かれていたのを見て、圧倒され過ぎてなんかもう、笑えた。(トレースされているせいで場面によって表情が不自然だったりしてそれも面白い一因)
加えて、とてもセンスの良い色使いにびっくり。
一見、奇抜な色使いをしそうな印象を受けるけど、そうではなく、とてもセンスのいい色使いに感慨だった。

さて、ダーガーを論じる時に必ず出てくる、幼児性、ロリータコンプレックス、統合失調症、などの精神分析に僕はあまり興味がないので、それには触れないことにする。
心理学的論考はそれはそれで面白いんだけど、どうもダーガーと精神分析を結び付けたくないという自分勝手な想いがあって、、そして、やっぱり、ダーガーの魅力はその謎だと思っているので、謎を謎のまま楽しみたいと想うから。
「ダーガーはたまたま病んだ精神を作品に昇華することができただけで、下手したら幼児虐待者になっていたかもしれない、いや実際していたのかもしれない」という話が出るのも分かるけれど(実際、この前取り上げた秋葉の殺人者と似ていなくもないところがある)、ホームレスのような風貌だったが隣人や大家に恵まれ、風変わりな、まあ気味は悪かったんだろうけど、憎めない人物であったことは関係者たちが証言しているし、ダーガーは犯罪者ではなかった。というのが紛れもない事実なので、そこを掘り下げる気はしない。
(このことに関して、芸術手帖での会田誠の論評がとても面白いんだけど、それはそれとして)

このような話がたくさん持ち出されるほど、ダーガーはある面から見れば精神病理的な絵を描いていたため、知的なもしくは精神的な障害者だと勘違いされることがある。
けれど、まあ精神的なことはともかくも、知的障害者ではない。
ダーガーが自身で書いた自伝や「非現実の王国で」は実際の歴史に影響されている部分(第二次大戦終結後に描かれたとされる絵には花畑で遊ぶ少女の絵が多数見られ、平和への願いのようなものも見られる)があったり、戦争の悲惨さや共産党の批判を自ら書き綴っているという点を見てもダーガーが知的障害者ではないと分かる。

しかし、一方でダーガーは幼い頃、知的障害者として育てられていた、という事実がある。
それは小学校時代、、ダーガーは、口や鼻やのどを鳴らして奇妙な音を立るなどの不穏な行動をしていたため(ダーガー自身は、級友を楽しませようとした。と語っている)、いじめられ、喧嘩などの騒動を繰り返したために、教師や医師から感情障害を示したとされ、知的障害児の保護施設へ移されてしまったのだ。
確かに不遇な境遇に生まれたために、感情障害を起こしていたとしても、知的障害ではないダーガーをいきなり知的障害児の保護施設に連れて行くのはあんまりだ。
そして、そこで5年間も過ごすのだから考えただけでも気が滅入る。
ここでのできごとがトラウマとして「非現実の王国で」の「子供奴隷」のモチーフになったんじゃないかと思われる。

さて、肝心の「非現実の王国で」。
そのあらすじはというと、、
非現実の王国では、子供奴隷制を敷き卑劣な虐待を繰り返す大人の男たち「グランデリニア軍」に対抗し、それを解放、救出しようとするキリスト教国連合軍「アビエニア軍」と7人の少女「ヴィヴィアン・ガール」(ヴィヴィアン・ガールは射撃の名手にして変身の名人、残虐な拷問にも耐える強靭な戦士)、そして、ヴィヴィアン・ガールを助ける、少女の顔をしながら長い尾と羊の角を持つ「ブロンギグロメニアン・サーペント(総称ブレンゲン)」(ブレンゲンは”どんな母親の愛を凌ぐほど”の愛情でヴィヴィアン・ガールを守る!)が激しい戦争を繰り広げる。
しかも作中にダーガー自身もいろいろな役割で登場する。というもの。
「子供VS大人」もしくは「少女VS大人の男」という戦記ものなわけです。
この戦いの挿絵の中には、無残に臓腑を引き出された少女の死骸が大量に張り付けにされてる描写だとか、首を絞められて白目を剥いている描写だとか残酷なものがたくさんあり、その一方で花畑で遊ぶ可憐な少女たちを描いたものもあり、と、やりすぎだろってくらい残酷な描写の次に、これまたやりすぎだろってくらいの素敵な描写があったりと、なんかもうクラクラする。
しかも、少女たちはペニスをつけていて、それがトレースで大量に溢れているので、もうなんか分からんけど、凄い!としか言いようのない代物なわけで。
なんでこんなの描き続けたんだろう、しかも40年ものあいだ、密室で、ヘンタイかしら。と考えてしまう。そして、どっぷりとダーガーに惹きつけられてしまう。


ヴィヴィアン

<戦うヴィヴィアン・ガール>


ブレンゲン

<ブロンギグロメニアン・サーペント(ブレンゲン)>


虐殺1

<グランデリニア軍の虐殺>


僕がダーガーを大好きな理由は、作中のいたるところに散りばめられた両義性。
一見メルヘンな世界にはアンチメルヘンな要素が入り混じり、作中に出てくるダーガーでさえもグランデリニア軍側についたり、ヴィヴィアン側についたり、はたまた全然関係のないジャーナリストとして物語を俯瞰したりもする。
さらには、少女たちはアンドロギュヌスで、女嫌いなのに少女ばかりを描き、神を深く信仰しながらも一方で深く憎んだり、と物語自体も両義的で、そしてダーガー自体が抱える矛盾が、酸いも、甘いも、苦いもが、これでもかと物語に吐露されている。
吐露されているんだけど、ドロドロしてるようには見えなくてなんか拒否することができない。
むしろ、なんかかわいい。と、見てるこっちまでアンヴィヴァレンスを引き受けてしまう。
だから、ダーガーの絵を、芸術的だ!のひとことで片付けることはできないし、ヘンタイだ!のひとことでも片付けることができない。
混沌としたメルヘン、これがダーガーの魅力だ。
ここにダーガー研究の第一人者であるジョン・M・マクレガーのすごく共感させられる名文を引用してみる

『王国』を通して、ダーガーは混沌の世界を描き、文明が崩壊する過程を描いている。
戦争、奴隷制、道徳の瓦解はさらに大きな解体の一部にすぎない。
世界崩壊の妄想に囚われながら、彼はどうにか際に生きていた。
多分自分自身をも含む、人間の中にひそむ悪の限りない可能性に苦しみながら、幼子のように神への信仰にすがりついていた。
雲の中から神が現れ、秩序を回復し、正義をもたらしてくれることを願いながら。
しかし神が何もしてくれないとこを知り、ヘンリーは狼狽した。このことが『王国』の探検を促した。


では、その探検の結末は、いかなるものだったか.....
実は、「非現実の王国で」のクライマックスは、二通りある。
それはヴィヴィアンガールたちがグランデリニア軍に打ち勝つもの、そしてもうひとつはヴィヴィアンガールたちが窮地に追い込まれ激しい戦争をまた繰り返すもの。ここにもダーガーの両義性を見てとれる。
そして、一応はクライマックスを迎えた「非現実の王国」だが、実は「シカゴにおけるさらなる冒険」という続編が存在している(8500ページも!)。
きっとダーガーはこの王国から離れたくなかったんだろうな。


さて、映画を見てきたので。と書いたが全く映画について触れていないので、感想をば。
まず衝撃的なのはダーガーの絵が動くこと。
これについて賛否両論あるみたいだけど、僕は演出の効果としてとても良かったと思う。
この映画自体が、大家の妻や隣人などの証言を交えつつダーガーの実人生を辿りながら、非現実の王国のストーリーを平行させていくという現実と幻想を行ったり来たりする演出なので、動くダーガーの絵はとてもマッチしていたように思う。この夢うつつな映画構成がとても素敵だった。
孤独な人生を送ってきたとされるダーガーだけど、おかしな風貌にもかかわらず大家や隣人にとても恵まれていたようで、声をかけてもらっていたり、誕生会をしてもらっていたり、晩年、足が悪くなってからは介護もしてもらっていたようだ。(その隣人って人がいかにもやさしそうな人で、ほっこりしてしまう)
人付き合いがうまくなかったダーガーが大家の飼っている犬のユキに興味を示し、かわいがっていた。というエピソードも素敵だった。
そしてもっとも興味深かったのは、、、

晩年、ダーガーは体調を悪化させ、養老院に入ったため、大家がダーガーの部屋の整理していた時に小説と絵が発見される。その作品に大家や隣人は皆驚かされる。
養老院にいるダーガーに、それを見た隣人が「君の作品を見たよ。素晴らしかった」と告げると、不意打ちのパンチをくらったボクサーみたいに白目を剥いたという。
そしてダーガーはこうつぶやいた。
「もう遅いよ」

一体、この時のダーガーの気持ちはどんなだっただろう。

一年後、ダーガーは亡くなってしまう。81歳だった。


ダーガー1



ダーガーは、その人生の大半を密室で過ごしたため、資料といったら、自ら書いた自伝と日記、数少ない関わりをもった人たちの証言ぐらいしかない謎多い人物で、加えてその小説、挿絵がまた謎だらけで、それ故に精神分析やらいろんな見方をされているけど、僕はやっぱりそういうものにはあまり興味がなく、僕の中では、よう分からんけど、凄く現実的で、凄く幻想的で、もうなんか凄い変で、素敵な人。ということになっています。
ダーガーの墓標には「子供たちの守護者」と刻まれているそうなんだけど、これがダーガーに一番ぴったりなんじゃないか。と僕は思う。











旅の仲間 -澁澤龍彦と堀内誠一による航空書簡より- 

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澁澤龍彦、堀内誠一の約20年に及ぶ全67通(澁澤龍彦24通、堀口誠一43通)の往復書簡展
渋谷 ギャラリーTOM にて

 ギャラリーTOMは吹き抜けワンフロアに、そこから階段で登るグルニエのみっていう小さなギャラリーだけれども、明るくて雰囲気がよく、好きなギャラリーのひとつ。
 
 ギャラリーに入ると壁一面に澁澤、堀内の往復書簡が展示してある。
 堀内誠一の手紙には色鮮やかなイラストがついていて楽しめる。両氏が写った写真パネルも何点か飾られていた。(その写真がとてもカッコよかった!)
 この日は、両氏の盟友であり、仏文学者の巌谷國士氏のトークイベントがあるということもあってギャラリーはすごくにぎわっていた。

 「旅の仲間」ってタイトルは澁澤と堀内が旅行仲間だった。ってわけではなくて(正確には旅行も一緒にしているが)「旅」=「人生」といった具合に訳される。巌谷國士らしいタイトルの付け方だ。

 
さて、澁澤龍彦の友人といえば、三島由紀夫や土方巽、四谷シモン、金子國義といったディープな人物があげられるけれども、巌谷國士曰く、本当に気が合い、仲が良かったのは堀内誠一ではないだろうか。ということだ。
 澁澤の生まれたのが1928年、堀内が1932年、と両氏はほぼ同年代。
巌谷氏の解説によると、両氏の仲がよかったのは同年代に生まれ、同じような映画、アニメ(武井武雄など)を見て同じ時代を過ごし、共通のノスタルジアを持っていたのではないか。そして、それは個人が持つ懐かしさとは違った、同時代における共通した本質的な懐かしさが二人を引きつけたのだろう。年は4歳はなれていても、おなじ東京で生まれて同時代をすごし、おなじものを見て成長してきたという一種の連帯感が、人生という「旅」の仲間のあいだに、浸透しつつあったかのようである。と。
 
 さらには両氏の仲には親密で共犯的なようなものがあったらしくお互いの手紙の内容を自分の仕事のネタにしたりしていたらしい。しかし、パクリ云々などで騒がない、あっそうなんだ。という軽い目配せですますことのできる信頼関係が成り立っていたそうだ。

 そもそも澁澤と堀内が親しくしはじめたのは、1968年澁澤龍彦責任編集として刊行された雑誌
「血と薔薇」のアートディレクションを堀口に任せた時からだった。
 この雑誌は《エロティシズムと残酷の綜合研究誌》と銘打たれ、60年代の澁澤の仕事を総括するような内容の雑誌で、聖セバスチャンになりきった三島由紀夫のグラビアやら稲垣足穂、埴谷雄高、吉行淳之介…といった相当たるメンバーのエッセイやらオナニー機械やポルノグラフィティの特集やら、、とまあかなりディープでカルトでカオスで艶っぽくて、黒光りしていて、絢爛豪華で、とすごい雑誌だったわけで。
 
 ここで、面白いので刊行の際に掲げられた「血と薔薇宣言」を抜粋。
 (おそらくアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」の影響を受けてるんだろうなあ)


一、本誌『血と薔薇』は、文学にまれ美術にまれ科学にまれ、人間活動としてのエロティシズムの領域に関する一切の事象を偏見なしに正面から取り上げることを目的とした雑誌である。したがって、ここではモラルの見地を一切顧慮せず、アモラルの立場をつらぬくことをもって、この雑誌の基本的な性格とする。


一、およそエロティシズムを抜きにした文化は、蒼ざめた貧血症の似而非文化でしかないことを痛感している私たちは、今日、わが国の文化界一般をおおっている衛生無害な教養主義や、思想的事大主義や、さてはテクノロジーに全面降伏した単純な楽天的な未来信仰に対して、この雑誌をば、ささやかな批判の具たらしめんとするものである。エロティシズムの見地に立てば、個体はつねに不連続であり、そこに連続の幻影を垣間見るにもせよ、一切は無から始めるのであり、未来は混沌とした地獄のヴィジョンでしか生まないであろう。


 いやあ、素敵。
 60年代の澁澤龍彦は、有名なサド裁判から分かるように(上記の宣言を見てもわかるように)異端、オカルト、エロティシズムと世間に疎まれつつも一方に熱烈なフリークを持つ存在だった。
 
 そんな澁澤に堀内は1970年、自身がエディトリアルデザイナーをつとめることになった女性誌ananの創刊号に澁澤のエッセイの連載を依頼する。(ちなみに堀内氏は日本の雑誌におけるデザインを重視したパイオニアで、現在においてもanan、ブルータス、ポパイ、オリーブのロゴは堀内氏のデザインしたものが使用されている。)今では頻繁に組まれる、雑貨、小物特集だが、これはananではじめて取り上げたもので(「かわいい」という言葉が流行るようになったのもこの頃から。)この雑貨の特集から連想された人物が澁澤龍彦だった。
 
 この雑貨=モノの発見、モノの紹介というのは、形は違えど澁澤が60年代から自身のエッセイで取り上げていたものでもあり、70年代に入り日本の社会が安定、生活水準の向上等の影響で、いろいろなモノが商品化され、街には物があふれていることに堀内が目をつけ、澁澤に依頼したらしい。いわば、異端のポップ化商品化といったところ。(例えば、昔は異端、カルトとされていた、骸骨。ガイコツはいまやポップイコンになっている。)
 
 しっかし、トレンドと異端の結びつけをする堀内氏の奇抜さはすごい。この沸騰時代ならではの組み合わせが本当に魅力的。そういえば澁澤はその後、花椿にも連載をした。花椿に澁澤龍彦だなんて、なんて素敵な時代なんだろう。
 
 さて、このように澁澤は、60年代の「澁澤龍彦」を商品化することを承諾するが、一方で、このころから澁澤は60年代の澁澤龍彦から決別するように、違う場所へと向かっていた。
 
 それは彼の著書 「夢の宇宙誌」から「思考の紋章学」へ至る軌跡を見てもわかるように異端、オカルトからモノへの哀愁、自然物への寵愛、さらには幼年期の回想へといたり、自身のミクロコスモスへと向かい変化していく。
 その中でももっとも大きな変化が「旅」だ。
 書斎派と呼ばれていた澁澤は1970年にヨーロッパへ旅立った。
 そしてその後も3度に渡りヨーロッパ旅行をしている。この変化を自身で、「観念の時代から視ることの時代への変化」と語っている。(一回目の旅行からの帰国直後に、盟友 三島由紀夫の自死。以後、澁澤はさらに大きく変化する)

 一方、堀内のほうはそれよりずっと早く、1960年からヨーロッパになじんでいて、1974年には家族とともにパリ近郊のアントニーに住みつき、1981年までの7年間をそこで過ごす。
(澁澤龍彦にあてた43通にもおよぶ手紙は、すべてその間の描かれ書かれたものだった。)
 澁澤の計4回のヨーロッパ旅行のうち3回目のフランス・カタルーニャ旅行(1977年初夏)と、4回目のギリシア・イタリア旅行(1981年夏)には、堀内夫妻と、ときに長女の花子が同行した。
 その間の個人的体験、さらに「仲間」として共有した体験もまた、ふたりの手紙のなかで回想されるようになる。

 そして、晩年。
澁澤は、エッセイの領域から小説へと至り、ヨーロッパ嗜好から日本へ目をむけるようになる。
 お互い、晩年に至っても往復書簡はつづく。
が、しかし、1979年以後は、澁澤龍彦からの手紙だけがのこされている。(以後、巌谷氏の解説を抜粋)
 
堀内誠一は帰国後も世界各地への旅をくりかえし、絵本制作やアートディレクションや著書執筆の仕事を精力的に進めていたが、86年6月、下咽頭癌を宣告される。
 それを知って澁澤龍彦が手紙に書いた言葉――

「放射線の照射をはじめられたそうですが頑張ってください 咽頭は治癒率がいちばん高いそうですから現代医学を信頼してもよいのではないかと思います」(1986年7月17日付)

には、胸をつかれる。
 なぜなら、そのころ近所の病院で誤診されていた澁澤龍彦自身、2か月後の9月に、おなじ下咽頭癌の診断をくだされ、11月には大がかりな除去手術し、声を失うことになるからだ。
 
 最後の便りは1987年6月の、澁澤龍彦からの葉書だった。
大手術後に退院、驚くべき意志の力で連載長篇小説『高丘親王航海記』の最終回を書きあげたのち、だが癌が再発し、再入院してからのものだった。

「いま『高丘親王航海記』加筆中です 秋には本になります 貴兄もどうか御養生専一に いつのまにか夏になりました」(6月23日消印)。


 けれどもその秋は来なかった。
 8月5日午後、病室で読書中に逝去。享年59.
 一方の堀内誠一も、6月までは絵本や新雑誌の企画などの仕事をつづけていたが、病状がにわかに悪化し、7月末に再入院。
 8月17日の午前、54歳の若さで逝去した。
 
 幼少期には共通の絵本や映画や町の風景を見て育ち、やがて戦後の一時期に知りあい、ともに遊びともに仕事をし、ともに旅をし、手紙のやりとりの間にもひそかに友情を深めていったこの「旅の仲間」同士は、最後にはまったくおなじ病におかされ、たった11日ほどの間をおいて、ともに旅立っていった。

 以上が巌谷氏のトークと解説文をもとに60年代後半から死に至るまでの、澁澤龍彦、堀内誠一の関係のまとめレポート。
 本当は、歴史、経緯云々をすっとばし、両氏の手紙を交えつつ、もっと関係を露にしたものが書ければと思っていたけれど(歴史を辿っていったので、かなりの長文になってしまった。)展示されていたものが手紙のみということと、展覧会当日時間があまりなく巌谷氏のトークのあとは展示物をさらっと見ただけで会場をあとにしてしまったので、、
 けれども。
 この両氏の手紙全てをコンプリートした書籍が発売されるということなので、近いうちに買って、また
徒然と何か書こうかな。とも思っています。

 会場には、澁澤夫人、堀内夫人もいて、なんだか遠い過去のこと、と思っていた澁澤龍彦の時代が、今もまだ続いているのだなと。感慨に耽りました。

澁澤 旅の仲間3

shibusawategami



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